海風ヤンマ物語(3)

《雨に濡れたクロ・六月その一》

雨の日……このことばは、子供にとって不思議な感情をもたらします。一年中、生活そのものが子供たちの「サイダーの泡のごとく、限り無く沸き上がる奇跡の物語り」なのですが、雨降りの日々は、また、特別なものなのです。いつも通りに山々を走り回れない不愉快さは、それはそれで大きいものですが。
アジサイの「あお」、不穏な雲行き、水溜まりを走り抜けるバスのタイヤの荘厳さ、和傘の中の黒留袖の後ろ姿……雨の日のいろんなこと……例えば傘。傘はまったく、雨降りのためにあり、しかし男の子はこれを遊び道具と認知していることは間違いありません。お爺さんのように、かっこ良くよたよたと杖に出来ることなど当たり前で、傘をチャンバラの刀でないと思うことなど、到底出来ることではありません。それを持てば、いつもの棒きれより一層、鞍馬天狗や赤胴鈴之介やシジュウシチシや「切り刻まれの石松の最後」に成りきれるのです(石松はモーチャンの独壇場でした。ひょうきんですばしこい彼は、決まって死に物狂いの形相でキチベエ一味相手に大暴れして、石松の最後を見事に演じます。だからボウたちは、おおいに抵抗し、モタモタを演じ、最後にきちんとトドメをさしてあげるのでした。もっとも、彼ら一人ひとりがテングやスズノスケやヤスベエであることには、変わりがないのですが)。
そして雨音を聴きながら傘を開くと(しかしこれまで、何本の傘をなくしたのでしょう……)、六本骨に比べ頑丈なサクラ骨の姿にちょっぴり優越感を覚えたりするのです。
アジサイが美しく濡れ、女の子の傘の赤が艶を増し、男の子たちは長靴の中にわざと雨水を入れて喜び、カタツムリも池の鯉も喜び、しかしじめじめと蒸し暑いのはたしかな六月のある日、ボウたちには歴史を変えるほどの事件が起こりました。
やはり今日も雨。これで四日連続雨降りです。ボウはカズマの家を訪ねて、その帰りがけ、あんまり雨にうんざりして、砂利道国道の水溜まりに浸かるのも飽きて、線路の上を近道することにしました。まだ5時35分の汽車が来るには、たっぷり時間がありますから。
線路は小学校のグランド横から、大きくカーブします。ボウはカーブの外側のレールに飛び移りました。内は丸みがあって、なかなか歩きづらかったからです。かわりに外側のレールは平らで、ボウは安心してさっさと鉄路の上を歩んでいきました。そしてボウの家近くの踏み切り間近まで来た、その時……。
線路下の排水溝から、「クイーン」という、子犬の微かな鳴き声。

おまえ、どがんしたとか。

溝の底の水に浸かって、真っ黒な子犬が震えています。ボウは線路から下りて、排水溝の横に回り込みました。子犬はなんとか立ち上がりました。人懐こい、可愛い顔がボウと対面しています。

こっちこい。こっちん、おいで。

レールがボウの目の前にあります、すると汽車の近づく音が響いてきました。子供たちはレールに耳を付けて、遠くの汽車の駆動輪の響きを聞くのが好きです、今日のボウは雨なのでやりませんでしたが。うかつにも、のんびりし過ぎたので、汽車が思ったより早く近づいて来たのです。汽笛がやや遠くで聞こえました。

早よ、こい。おいでおいで、早よう。

クイーンと、また鳴きました。よろよろと、右前足に白い靴を履いた真っ黒子犬は、ボウの懐に向け歩み始めました。

その日は、ボウの家の裏の物置にその犬を隠しました。あっためた味噌汁をご飯にかけて、子犬に食べさせました。真っ黒子犬は、夢中で食べました。よほど腹ペコだったのでしょう。三杯食べ尽くしました。古い毛布を見つけ出し、暖かな寝床も作りました。首には、荒縄のリードも付けて逃げないように用心もしました。そして、鳴かないように言いつけて、その晩を過ごしました。
それでも子犬は、淋しさのあまり、夜中クンクン鳴き通しました。しかしボウのお父さんは、なにも聞かず、黙って新聞を読んでいるだけでした。

翌日みどり場に、新しい仲間が増えました。同士はみんな、大喜びしてはしゃぎました。さて、名前を付けなければなりませんね。

クイーンって鳴いたとやろ、クイーンがよかたい。(カズマの口火)

おう、よかね、かっこよか。(ヒロはすぐに賛成)

可愛かもんね、そいでよかたい。な、ボウ。(ゴンは、大の犬好き)

そいなら、おいも、いっぺん思たばってん。(ボウは思案顔)

ダメきゃ、クイーンじゃ。まず、ボウが、決めなまし。(また、ツカの可笑しな言葉)

クイーンって、女の名前じゃろ。おいは、クロかキングがよかかなぁ。

キングって、がらじゃ、なかごたる。

クロでよかたい。クロなら、分かりやすか。

まあそういう訳で、無難に「クロ」に落ち着きました。

その日から、クロはみどり場の斥候隊長という、名誉な役目を仰せつかりました。(夜はボウの家の物置で過ごしますが)

クイーンクイーンと、相変わらず女々しい鳴き声で、クロはそれでも立派なみどり場の(正式に言えばウルトラガゴン隊の)隊員です。
みどり場仲間が、一匹の子犬とともに成長していく、その新しい物語りが、梅雨の田舎町に生まれた日のお話しです。




《悲しい一日・六月その二》

(申し訳ありませんが、このお話しは、この物語りの題名にはそぐわないものです。でも、どうしても、話しておきたいことなのです)

その日もやはり雨でした。それも大嵐というほどの……。学校は早引きになりました、小学校も中学校も。
雨が強くならないうちに、子供たちは、三校時で授業を終えて帰路に着きました。ボウもそそくさと支度をして、自慢のコウモリを少しすぼめて強くなりかけの雨風の中、真っ直ぐ家まで帰りました。今日はもう、みどり場にも行かず、クロに小屋から出ないよう言いつけて、家の中で絵を描くことにしました。夕飯まで、たっぷり思いきり、大好きなゼロセンの活躍劇や騎兵隊とアパッチ族のジェロニモとの戦いを描きまくり出来るでしょう。

夕方、中学二年の姉が帰って来ました。泣きながら……。

ボウ、ショウチャンの姉ちゃん、しっとろ。今日学校の帰りがけ、一関の踏み切りで汽車にはねられて……。

あとは、もう言葉になりませんでした。

(中学校も三校時で早引きなのでしたが、七月の合唱コンクールの県予選に出る選抜メンバーだけは、特別に居残り練習になったのです。ボウのお姉ちゃんもショウチャンのお姉ちゃんもメンバーでした。一時間ほどの練習のあと、メンバーも帰宅したそうです。先生は必ず複数で、雨風に充分気をつけて帰るよう、念を押されました。ボウのお姉ちゃんは友の二人と国道を帰りました。三人は途中、雨が強くなったので、懐かしの小学校の職員室で少し雨宿りさせてもらったそうです。ちょうどその時、連絡が入りました。中学生が、汽車にはねられたという第一報でした。職員室に動揺が走りました。一関の踏み切りだそうです。あれやこれや、相談したり、先生に中学校の様子を話したりしているうちに、第二報。ショウチャンのお姉ちゃんが、事故にあったというのです。すでに雨風強く、傘もままならない中、ショウチャンのお姉ちゃんと二人の友達は、おおいに気をつけてはいたのでしょうが……一関の踏み切りは左右の切通からすぐ、見晴らしは良くないのです。雨風に視界をさえぎら
れて、先頭の子が渡り、二人目も渡り……なにかの都合で少し遅れて渡ったその時、黒い影……)

ボウは三日後、お葬式に行きました。ショウチャンとは、話しませんでした。悲しい気持ちで、胸が一杯になりました。写真のお姉ちゃんは、可愛い顔で笑っていました。ボウは、何度か会ったことがあります。とっても、笑顔の綺麗な人でした。
空は梅雨の合間の、青空。なんだか、今日の空は悲しい空でした。いつか、ショウチャンが少し元気になったら、ボウは「お姉ちゃんと姫小百合」の絵を描いてあげようと、ボウがこれまで生きてきた中で一番悲しい空に、それでもあまりに美しく透明な青い空に、そう誓ったのでした……。


《ギンヤンマが僕らに謎かけをした日・七月》

ボウ、ギンヤンマってしっとるろ。

あと三日で夏休みという日曜日、赤レンガの教会の丘の林から午前の地ワナ張りを終えて帰る道すがら、ふと立ち止まったカズマがボウにわりと深刻な顔でものを言いました。

うん、しっとる。ふっとかトンボの、尾っぽの黒と黄色の縞の見ゆるとやろ。

うんにゃ、違うばい。そりゃ、オニヤンマたい。
おいの言いよっとは、ほら、農高の堤の上ば、飛び回りよるやつたい。

あぁ、そうじゃったねぇ。(ボウには去年の夏、トンボ釣りで捕まえた、あのオニヤンマの緑色の美しい眼が、はっきり浮かんできました。他にも、そういえば、ノコギリクワガタを捕まえました。もちろん、クワガタは飼ったのですが、オニヤンマは直ぐに標本にしました。残念なことに、標本になったオニヤンマの眼は、もう緑色の美しさは失われていましたが……)

カズマが、何故この話題に転じたのか、ボウにはその意味がなんとなく分かっています。

おいはね、トンボ釣りなら任しとき。得意やもん。ばってんか、ギンヤンマだけは、まだいっぺんも、捕まえきらん。あいはさ、堤の上ば、飛び回りよろ。なかなか、こっちん、来んもん。
兄ちゃんは、ばってん、時々捕って来よらした。おいは、そいば、いっつももろて、嬉しかったと……。

あん堤にゃ、だいたいが、ギンヤンマはあんまし、おらんもん。ほかのトンボやらタガメやら、おっとかしこほど、おるばってん。いつもおいは、ギンヤンマの飛びよっとば見て、かつこよかなぁって、憧れとっとさ。目立たんでん、翅のキラッとすっと、美しかもんね……。

うん、わかるばい。トンボでん、アキアカネっちゃ、あんまりぎょうさん、おりすぎやもんね。ギンヤンマは、タカネノハナたい。(ボウは昨日聞いたばかりの大人っぽい言葉を使ってみました)

ふーん。と、カズマはあんまり気の無い返事を返しました。クロが 目を輝かせて二人の前に回り込んで、クイーンと鳴きました。

でもな……、おりゃ、ギンヤンマば、自分で捕ってみたかと。ギンヤンマの群れに会いたか。兄ちゃんの…よう言いよらした。あっちにゃ、あの峠ば六つ越えた里には、ギンヤンマのぎょうさん飛びよる池のあるって。嘘じゃ、なかばい、ボウ。

カズマの二番目のカズヨシ兄ちゃんが、十日前の夕方、ここから汽車で半日ほどの、基地のある街に行きました。町の農業高校を二年でやめて、働きに出たのです。基地の中の食堂で住み込みで働くのだそうです。
カズヨシ兄ちゃんには、何度か遊んでもらったことがあります。野球部のエースで、中学校時代は町の花形、一番人気の「かっこいいなあ」と、憧れる人でした。キャチボールをしてくれて、バットの振り方も教えてくれました。カズヨシ兄ちゃんは、小学生のボウたちにとって、一番かっこいい「大人」の人でした。
それから秋になると、アカトンボをいっぱい捕まえて、カズマにもボウにもくれたことを思い出します。

おいは、学校の図鑑で見たことのある。ギンヤンマの体ん模様。

ボウは思い出しました。大好きな小学校の図書室。たくさんの本が、書棚にきれいに分類されて並べられていて、ボウはその中を背表紙のタイトルを読みながら、歩くのが好きでした。それからお気に入りの背表紙を探しだして中を開き、読みふけったり、ただ何となく眺めたりする時間の豊かさが、その小学校の図書室にはあるのです。
「世界少年少女文学全集」は残さず読みました。……偉大なるワン、狼王ロボ、小公女、奇巌島、ファーブル昆虫記……みんな、ボウの心のどこかを温め、どこかをふるわせ、目をつぶるとまるですべての色が言葉の姿になって、自分のどこかが少し成長したかに思えるのでした。
また、図鑑を見るのが、ボウには、まだ見ぬ世界の入り口に立つようで、うっとりするほど、しあわせな時間でした。一番眺めたのは、昆虫の図鑑です。ボウには、昆虫の姿は不思議そのものでした。もちろん身近に、たくさんの本物の昆虫たちが、ボウたち子供の毎日を楽しく豊かにしてくれているのですけど、その姿の細かなところまで図鑑は教えてくれました。それらの大きな眼を、いちいち図鑑で眺めていると、本当にこの眼はボウのことをどんな風に見ているのか、知りたくなります。……蝶の燐粉の美しさ、セミの口の不思議さ、カマキリの鎌、トンボの飛翔の翅の動き、カブトムシとクワガタの対決、 ミツバチのカギ針や花粉球の面白さ、スズメバチの翅の折り畳み……どのページもボウの好奇心を大いに揺さぶるものでした。

翅の銀のごと、光りよって。体の青の模様の、綺麗かと。おいも、カズヨシ兄ちゃんにいっぺん、もろたと。そんときゃ、ギンヤンマっちゃ、知らんやったと。後で学校の図鑑で分かったとばってん、翅も模様もおんなじじゃった。

そうさ、ギンヤンマは特別やもん。ギンヤンマは……。

カズヨシ兄ちゃんが町の駅から旅立つ時、カズマとボウはお見送りしました。ようやくあけた梅雨の後の空が、その日曜日の朝は無性に青く澄んで、何故だか二人を悲しくさせたのを思い出します。

だけんね、ボウ。おりは、この夏、そんギンヤンマの堤ば、探しに行こうて、思とる。

ボウ、つきあわんか。クロもつれて。

遥かの吹上岳のてっぺんから、生まれたての夏の風がひとかたまり下りてきました。その風は、二人のほほを撫でてから、みどり場の梢の合奏の指揮者になってやがて過ぎて行きました。

おいたちゃ、いつでん、一緒ぞ。

農工の堤の上を一回りした夏風が、またこの小さな冒険隊員達のほほを優しく撫でました。道端の若いアザミがその棘を澄まし、花の赤を一層凝縮させて、二人と一匹を誘うような拒むような風情です。

今年の夏休みは特別やね。クロもそう思うやろ?

尾っぽをひときわせわしく振ってクロは「クイーン」と応えました。0402この頃の風はどこか潮の香りと木々の薫りを含んでいます。大陸から海を渡ってこの小さな町の山々を十分に駆けめぐり、やがて子等の待つ里へ下りてくるのでしょう。二人の知らない山里の奥の小さな池にもこれらの風は涼風となってき来て、堤の端の茅の葉の上で、ちょうど回遊の疲れを癒している、ギンヤンマの翅をきらめき揺らしていることでしょう。
教会の脇の黄金色した細道に、ぽつりとえんじの雨粒が一粒見えました。じきにスコールがこの里の道いっぱいに、少しにぎやかな大小の輪を拡げていくのでしょう。
言葉にならない大きな期待とちょっぴりの不安が二人と一匹をつつみ、みんなで吹上岳の向こうの、まだ見ぬ堤の光りを、心の中で探していました。それでもやがて、目の前の雨粒に急かされて教会の小道を足早にみどり場の方へ戻りました。ひとつの約束は、やがて小さなかけがえのない秘密になって、これから起こることに何だか待ち遠しい気持ちをあたためあった、夏のはじまりの一日がこうして過ぎていきました。

(つづく)


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