楠の空(了)

「それでも、学問をね、メイちゃん。僕は捨てた訳じゃないよ、決して」
 ジローはメイの脇を離れ、その声が聞こえる限りの間が空いていた。
「本当は、もっと勉強がしたい。もっと、今でも学びたい。それが、許される時ではないんだ」
  絞り出すような声が、メイに届いた。雷光が、ジローのまなじりに光った。
「お父様も、お母様も、誉めて下さったの?」
「お二人とも、無言で頷いただけだった。それはもう、お二人とも心で泣かれていたのだと、僕にはわかったんだ、メイちゃん」
 頭上の雲が、流れていく。その間に間に、星が瞬いていた。その空の下、この宇宙のほんの一点の、二人にとってのふるさとが静かに息づいている。二人の楠は、宇宙の滋養を満腔に享受し、ふるさとの大地に悠然と立っている。こんなに大きな大気の流れも、あの星たちから比すれば、一瞬の一点でしかないのでしょう。メイは、涙の心で、そんなことを考えていた。わたしは今、ジロー兄さんみたいに命を掛けるほどの何かを持っているの、わたしはどうしてこんなに、幼いの。メイは、消え入りそうに自責している。兄と父母の、辛い想いを知りもしないで、無邪気にはしゃいでいた自分が恥ずかしくなった。なんてわたしは、愚かなんだろう。
 五月の夜風は冷たい。ああ、こんなに夜は寂しいのか、メイは思ってしまう。兄さんの天の川の冬の方が、よほど暖かいのじゃないの。あの楠はもう何百年も、夏も冬も、厳しい中にこの地に立っているというのに。わたしはこの五月にうろたえている、本当に弱い……。

メイは鎮守の大樹を振り返った。
 夜の闇にも、その姿は泰然としている。近寄り難いほどの威厳と、何故か心が休まる包容力とをあわせ持ち、わたしたちの悩みなどまるで超越し受容し、威圧するわけでもなく自らをこの地に示し、毅然としてそこに在る。
 暫く、というのは一瞬なのかやっと耐えられるくらいの時間なのか。暫く、メイは楠の姿にわが身全身で向き合っていた。親密な時間だった。その間、メイは心の奥で何かが生まれるのを感じている。自力なのか、他力なのか……。人は緩やかにも成長するし、きっかけや天啓によっても成長もする。楠は語らない。しかし、そこに在ることが、メイの何かを変えた。この子の場合、これを成長と言っても良いだろう。暫くのその次の時間に、メイは想いと言葉を持った。

「お兄さん、メイは想いました、今」
 大楠のシルエットが揺れている。大楠の言葉が聴こえる。
「わたしはジロー兄さんを、信じます。わたしの限りの力で、ジロー兄さんを信じます」
「お兄さんもわたしも、今ここに居ることが、大事な真実なのですもの。わたしは、信じることが出来る。今もこれからも、わたしたちに委ねられたものを。それは、希望です。ジロー兄さん……」
 大楠は、この地の自然と出逢うものすべてを受け入れて立っている。柔軟であり、自律してあり、誇り高い。無言であり、能弁である。誰を傷つけることなく、教戒する。それは楠の自然なのだ。わたしたちもそう在りたい。困難である程、わたしたちの道は開ける。
 メイの心の中には、二人で仰ぎ見たいつかの、凛と立つ八幡宮の楠の姿と美しく澄んだ青空が広がっていた。あの楠が教えてくれている、今。メイは言葉を続けた。
「約束して、お兄さん。それでもかならず帰ってくるって。きっと帰ってくるって」
 目に見えない風の道が、確かにある。ジローは感じた。メイも感じている。
「かならず、そうする。メイちゃん、僕はかならず帰ってくる。全てが終わったならば。そしてまた学問する」
「メイちゃんも、どうかそのままいてくれ。素敵な僕の妹として」

 これ程単純で切実な約束が、楠の空の下、二人の間で結ばれた。素敵という言葉は、それからメイの中で、特別な意味となった。程なく、二人は山王丘を下りて家路についた。あの懐かしい我が家には、母と父が待っている。二人の寄り添い歩む後ろ姿を、楠はいつまでも見ていた。

ー了ー

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