楠の空(2)

 二人はそれから半時も、山王丘の散策を楽しんだ。ようやく陽は落ち、あたりは闇に包まれた。散歩の終に前原から本丸奥の八幡神社に登り、手水脇の玄武岩の古いベンチに並んで腰掛けて、二人を育てた町を眺めた。
 点々と家々の灯りが見える。この頃、めっきり町は暗くなったとメイは感じる。防空のために、どの家も黒い暗幕を窓に垂らしているのだ、それでも何時かの明るさの無い町は寂しい。遠く漁り火が、僅かに見えた。二人の座った石のベンチが、ひんやりとして心地好い。境内の一角に、もう三百年はここに生きているという、大楠がある。樹高二十一米、幹回りは十三米に及ぶ。維新の戦でも、戦禍を免れて生き抜いてきたのだという。メイたち兄妹は、幼い頃この楠の下でよく遊んだものだ。随分と老いた大樹は、それでも美しく姿佳く、毎年のように蒼々と葉を繁らせ、この時期は可憐な淡緑の花を付けアオスジアゲハや鵯や子どもたちを集めて、この山王丘の主であるのだ。この地の人々は、この楠の大樹の前に立つとき、かならず畏敬の念を持つのだ。中天の薄明かりを背に、大楠は暗く美しい緑の影絵を見せて、二人を抱擁している。
「ああ、もうすっかり暗くなってきたね」
 二人の兄と妹はこの散策の中で、お互いの興味や趣味について沢山話しをしてきた。メイは兄のいろんなことへの造詣の深さに、驚きもし尊敬の念を禁じ得なかった。特に飛行機の翼の話しは面白い。揚力の話しだ。空気の流れには、そんな力があるのだということを初めて知った。その他にも、蒸気機関の話しやアトムの話し(メイの体にも、ちいちゃなお星様がぐるぐる回っているのかしら……)ベルグマンの法則(烏も真四角に例えられては、ちょっぴりかわいそうね)等、メイには初めて聞くものばかり。科学は本当に面白い。メイも精一杯、今の自分の気持ちを伝えた。国民学校の友だちのこと(モンペがあまり好きじゃないことは、言わなかった)、集団登山で仲良し三人組が迷子になったエピソード(あんまり下の沢が綺麗だったの。あの沢の水の心地良い冷たさ!)、その時の雪浦澪先生の本当にご心配なさった様子(今でも申し訳なく思っているの……)、ちょっぴり気になるクラスの男の子のこと、もちろんお花のことは一杯……兄と春の宵に親しむ、メイにはたまらなく幸せな時間だった。
 森の奥、コノハズクのくぐもった鳴き声が遠く響いて来る。もはや、夜が四周を支配し始めたのだ。僅かに残る町の灯りが、地上の星のようだった。遠く漁火は一時前より増えている。人々はこの管制の厳しくなった中でも、淡々と日常を営んでいる。岬の端正な姿は、薄い夜光を背景に輪郭のみに見せていた。二人はそろそろ家路に着こうと、玄武のベンチを離れた。大楠の正面を過ぎる時、ジローは静かに立ち止まった。大樹を仰ぎ見ている。雄大な樹影がジローを包み込んでいる。メイは何故か、言葉の無い会話が、この偉大な樹と兄の間で交わされてるように感じた。程なく兄は、大楠の数枚葉のついた小枝を手折った。その所作は、何かの儀式のようにも感じる。やや間があって、ジローはメイの方へ体を返した。
「メイちゃん、僕はね。君も知っての通り、昭和と共に生まれてきたのさ。この世に生を享け、なに不自由なく育てられここまで成長することができた、それは誠に、父上と母上には感謝している」
「今は戦時下だが、僕の少年時代は、とても良かった。思い出すなぁ。
 裕福では無いが、豊かな毎日を生きてきた。多くの友を得て遊び語らい、そして豊かな自然……この山河、僕の感性はこのふるさとで豊かに育まれたんだよ。それに、なにより……」
大楠の葉がさわさわと揺れた。
「僕は、家族の愛に恵まれた」
 メイは、この豊穣な時間がいつまでも続くことを願った。
「僕はね、メイちゃん。あと二月もすると、美保の予科連に入るんだ。飛行兵になるのだ」
 沈黙する、ということは人の心の動きを現すのだろう、わたしは、今何を応えられるのだろう。メイは兄の言葉を心で反芻した。わたしは、その意味を本当に理解出来ているのだろうか。兄はわたしに、何を伝えたいの、その言葉よりもっと深い意味が……。メイは泣きそうになっている。
「だってお兄さん、去年の春に大学に入ったばかりじゃない、英文学をあんなに……」
「メイ。今は、学問よりもっと大事なのだ、防国の時なのだ」
 まるで遮るような兄の口調に、メイは胸が詰まった。
 今の今まで、優しかった兄さんが別の人になったようだ。これが本当にジロー兄さんなの?わたしは違う気がする。わたしだって、人の心のことを一杯考えてこれまでを生きてきた。ジロー兄さん、何か、思い詰めて無理しているのじゃないかしら。その決心は立派だけども……。
「英語は敵性語として疎まれている。今は、国の為に我が身を捧げる覚悟が必要なんだ」
 いつか兄が読んでくれた、シェークスピアが、メイの頭をよぎった。「To be, or not to be 」
 それから二人は無言のまま、楠を後にして石段の方へゆっくりと向かって行った。五十一段の苔むした階段を、二人は数えるようにして明地に降り立った。メイには、途方もない長い時間が過ぎた気がする。見渡せばふるさとの山河、振り返れば大楠の悠久の姿……。

 一時前の風は、どこへ行ったのだろう。メイは、それだけ考え続けていた。兄さんは、わたしに本当に心を開いてくれているのだろうか。いや、わたしは兄さんの本当の心を、分かってあげてるのだろうか……。メイは自分の拙く幼い心が、憎くさえなった。涙が出た。兄さんが、出征する、飛行兵として訓練を終えたらば、この戦争に出て行ってしまう……。メイも、このふるさとは大好きだ、守りたい。この国に生まれて、この国を愛する心は、メイだって人には負けない。この度のジロー兄さんの決心を、わたしはどう思っているの?賛成?反対?兄さんの国を愛する形は、今、予科練に志願することしか無いのだろうか。本当に、英文学の情熱は、今の兄さんにとって第一番では無いのだろうか。学問を続けることは、国を愛することとは、ならないのだろうか。もしも、戦争が人の心の戦いならば、兄さんはもう、立派に国を守っているのでしょう?今、若い人の命が、戦争という現実の中で集められ、やり取りされる。もうとっくに、みんながそれぞれの戦をしていると言うのに。

メイは、思った。わたしは正直な気持ちで、ジロー兄さんには、今は兵隊さんになんかなって欲しくない、どんなに風当りが強くても、学問にひたむきであって欲しい……。
 メイは、いろんなことを考えに考えていた。しかし、言葉にはならなかった。本当の言葉になるほどの、今のわたしの言葉は、表現する力もなく説得する力もなく、只まとまらない迷い言葉にしかならないのでしょう。わたしは幼すぎて、兄さんの力になれない……。
「メイちゃん、泣かないで。驚かしてごめんね。でも兄さんは、メイちゃんには直接話したかったんだ」
 いつの間にか、昼の海風は山からの風に変わっていた。十二三の漁火が沖で泣くように瞬いている。町の僅かな灯火も、メイの眼の中で瞬いていた。
「英文学を裏切ったことを、メイは怒っているのだろう?君とあんなに約束したのにね……」
「……違う、違います。兄さん……」
「メイは、怒ってなんかいません。ただ……」
「ただ?」
 海の上に小さな雷光が、遠く光った。大楠が美しいシルエットを見せた。
「ただ……メイはどうしてか、悲しいの。わからないの。他の人は立派な決断だって、いうのだろうに……メイにはわからないの」
 先ほどより、大きめの雷光が走った。音は無い。
「兄さんは考えた末の、ご決断なのでしょうに。ごめんなさい、メイにはわからないの」
「僕はこの変心を後悔はしない。してはいない」
 俯いたメイの頬を、冷たい風が刺す。
「それでも、学問をね、メイちゃん。僕は捨てた訳じゃないよ、決して」
 ジローはメイの脇を離れ、その声が聞こえる限りの間が空いていた。
「本当は、もっと勉強がしたい。もっと、今でも学びたい。それが、許される時ではないんだ」
 絞り出すような声が、メイに届いた。雷光が、ジローのまなじりに光った。
「お父様も、お母様も、誉めて下さったの?」
「お二人とも、無言で頷いただけだった。それはもう、お二人とも心で泣かれていたのだと、僕にはわかったんだ、メイちゃん」
 頭上の雲が、流れていく。その間に間に、星が瞬いていた。その空の下、この宇宙のほんの一点の、二人にとってのふるさとが静かに息づいている。二人の楠は、宇宙の滋養を満腔に享受し、ふるさとの大地に悠然と立っている。こんなに大きな大気の流れも、あの星たちから比すれば、一瞬の一点でしかないのでしょう。メイは、涙の心で、そんなことを考えていた。わたしは今、ジロー兄さんみたいに命を掛けるほどの何かを持っているの、わたしはどうしてこんなに、幼いの。メイは、消え入りそうに自責している。兄と父母の、辛い想いを知りもしないで、無邪気にはしゃいでいた自分が恥ずかしくなった。なんてわたしは、愚かなんだろう。

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