楠の空(1)

 ここには道という道は見当たらない。それでも風がそよぐと、その風の通る道は見えてくる。余程、気をつけていないと、道というものの性質を感じるのは難しいが。大体道は人が通る時に、道としてあるのだということ自体、道の本質から逸れているのだろうと、ジローはふと思った。
 五月の風が吹いてきた。今日は微かなものだ。踏むことで道であることを確かめながら、ゆるりと山王丘を大回りして、なんとなく準備されていたように小さな屈曲を繰り返しながら、十二の妹と七つ上の兄は透明な夕陽を浴びながら、散歩を楽しんでいた。
「メイちゃん、ご覧」
 丘の前庭のように広がった草原を、兄の少し先をひらひらと楽しそうに歩く少女はその言葉に立ち止まり、つと振り返った。シロツメクサの敷き詰められた絨毯の上で、少女一人おとぎ話の世界に逍遙していた。柔らかな頬が五月の風に撫でられて、ほんのりと桜色に染まっている。少女の細い体は、しなやかなばねのように春の大気の中に存在していた。
「あれが、風の道さ」
 兄の指さす彼方を見ると、若木の葉っぱがひるがえり銀色に光りながら、おおらかなグラデーションを描いて次々と進んでいく。山王丘と呼ばれる小さな城を中心に、人々は路地路地にそれぞれの生活を営んでいた。丘からは直下の港を隔て、岬の突端を緩やかにうねうねと重ねながら、やがて海と空の交わるあたりで、春の森ははなだ色に霞んでいた。幾歳か過ぎた森の姿は、その懐に抱かれた内海の青と一曲をなして、見る人を自然と心和ませた。
「綺麗。ね、ジロー兄さん」
「そうさ、ここではみんなが勝手に姿を見せるんだ。あの風たちも」
「可笑しいわ、兄さん。勝手だなんて」
「勝手と言わなかったら、そうだな……」
 この町の中を一筋の川が流れている。小振りの釣り船が舳先を並べて河岸に繋がれてわずかなリズムで揺れていた。その向こう、古びた瓦屋根が連なる先長者岬の集落の影からは新たな景色が始まり、遠く里田原の畳なす水田の水面にも、春風は色を変えながら進んできた。
「メイちゃん、君。本当の星空を見たことがあるかい?」
「ジロー兄さん、ずるいわ。まだお話しの途中よ。……そうねぇ、お星様なら天の川かしら」
 いつも兄さんはお話しが直ぐと代わってしまう、わたしはついていくのが大変。そう改めて考えながら、それでもメイは去年の夏の天の川を思い出していた。幼女だった自分が少女となり、なんだか初めて星たちの大きな美しさを感じたのは、去年の夏だったような気がする。
 八月の夕立が空を洗って、そのまま闇を迎えた丘の裏手のかおりちゃんの家で、気のおけない友だち数人と線香花火を楽しんだ日。メイは帰り道夜空を仰いだ。満天の、お父様がよく言っていた漆黒の御盆に真砂を一面ばら蒔いたという、満天の星空があった。頚が痛くなるほどの高さに淡い天の川の流れを見た。それが星の集まりであることは、メイの知識にもすでにあったが、その日の銀の流れは本当の星々の色を見た気がした。
「夏の天の川って、一番好き。メイは」
「そうか。兄さんも天の川は好きだなぁ。でも兄さんは、冬の天の川だな」
「冬?だって、天の川は冬に見えやしないでしょう」
「いや、冬も流れてる。綺麗だぞ。町の灯りもない、他に誰もいない、そんな真夜中さ」
「冬の真夜中なんて、メイはいやだなぁ。怖い気がする」
 メイはそんな冬の真夜中に、星空を見ようなんて考えた事もなかった。なんだか自分がまだまだ子どもなんだと思えてしまう。それでも、兄さんはどうして冬の夜空を見たくなったのかしら。わたしなんかの知らないお兄さんの世界があるのかしら。メイの知らない、兄の一面に触れた気がして、メイは何故か畏れを感じた。
 眼下の港に一艘の烏賊釣り船が出港の支度をしている。時々、水銀灯の強い光が二人の眼を射した。メイの家は、日本海に面したこの城下町の中腹にある武家屋敷の中のひとつだ。代々、この小藩の家老を勤めてきた家柄である。小藩ではあるが、昔より海上通行の要衝に位置し、出入りの北前船によって賑い潤ってた。四代前の山上祐太朗は戊辰の戦いでは新政府軍と争い、山王丘に指揮官として籠城している。結局錦の御旗に敗れ、開城のまとめをした後、幼い藩主の代わりとして腹を切っている。享年三十六。ことある毎に、ジローたち兄妹は祖父から当時の話しを聞かされて育った。その度メイには、なんとなくこの世には守らなければならないものがあると思えるのだった。
「僕もね。初めて星を感じたのは、夏さ。よく羊のケット一枚持って本丸の明地に登ったものさ」
  ジローはまだ明るすぎる中天に、星々の輝きを見ているような風情で佇んでいた。
「空はいい。自由だ。本当に…青空もいい。雲の湧く空もいい。夜空は格別に自由だよ」
メイには兄が、殆ど独りごちてる如くにも見える。なんだか言葉を掛けるのが、気まずくなっている。
「メイちゃん、僕はね、いや……」
  ひとかたまりに青葉の風が二人を過ぎた。ようやく長者岬の端に宵の生まれがあった。
「……寝っ転がってね、星空を見てると、僕は心が澄んでいく。独りだ、実に……」
 ジローは思い出の中にいる。
「ダ・ヴィンチは素晴らしい絵を描いているけど、空も飛びたかったんだ。その先には、きっと星空も飛んで見たかったんじゃないかな」
 兄の部屋の画集の中でも、一際立派な一冊の画集を、メイも見せてもらったことがある。モナリザの手の美しさは、特にメイの心を震わした。
この地方は昔から躑躅が有名だ。その小さな淡い赤紫の花が、まだ硬い葉の中で風に震えていた。夕陽がその赤を重層に染め上げていた。メイの頬も仄かに赤みを増した。
「ご覧よ、メイちゃん。もうすぐ一番星だ」
一筋の風程の間。
「僕はね。一番星が出るとね、つい……」
岬の先に潮の流れに逆らう貨物船が一艘、波を切って重く進むのが、薄暮の中に見えた。
「二番星を探すんだ。それから、三番星、四番星……」
 女は、きちんと居ずまいを正している。
「僕はそれが好きなんだ。一番星は好きだよ、もちろん」
 ローはいつしか、体を半程ひねって中天を仰いでいた。メイには兄のその姿が、弦を外した弓のように見えた。兄の顔は見えなかった。
「それでも十程も数えると、その星がなんだか気の毒になる……だって、その星も一番にはかわりないだろ?」
 メイは静かに兄の方へ歩み寄った。それほど、兄の声が細かったのだ。大事なことほど、わたしには聴き取れない。大切なものほど、わたしには見えないことがある。メイは、ちょっぴり寂しい心地になった。
「ご覧。二番星だ」
 ジローが静かに、空を指差した。メイには兄のその手の姿が、淡い茜のシルエットに映り、まるでモナリザの手のように美しく見えた。
「綺麗だ。あれはジュピターだ。父さんに、教えてもらったんだ。僕は、父さんのニュートンで何度も見たことがあるよ。ガリレオ衛星の観察を去年の科学のレポートにしたんだ」
 わたしはやっと、水金地火木土天海冥って覚えたばかりなのに。メイは少し悔しくなった。だってこれなら、いつまで経ってもお兄さんには、追い付けないじゃない。ジロー兄さんはこの春、東京の大学に入ったのだし。英文学を究めるんだって、本当に学問上手なんだもの。わたしはまだ、お父様に勧められた三國志さえ読んでない……。
「メイちゃんはでも、花の名前は得意だよね、すごいよ」
 ジローは振り返ってメイを見た。お兄さんには、私の考えることが、わかるのかしら? 少しく驚いたメイだった。
「そうよ。お兄さん、わたしはこの世でお花が一番好きなの。だから、お花のことならなんでも、知りたいと思うの。わたし、クラスの中でもお花ことなら一番よ」
ふふっと、ジローの笑う声が微かに聴こえた。メイは、あわてて自分の気持ちを言ったことを後悔した。まるで幼児に、お兄さんには写ったのじゃないかしら。
「いや、ご免。メイちゃんのその正直さが羨ましくて、つい笑ってしまった、ご免なさいね」
「ジロー兄さんが謝ることじゃないわ。わたしがおっちょこちょいだから」
「メイちゃん、きっとそのままでいいと思うよ。そのまんまの君が一番いい。素直で美しくて、なにより賢い」
 そんなことを例え家族であろうと、他の人に言われたことがなかったので、メイは驚いた。と同時に胸が熱くなった。
「そのままの素敵なメイちゃんが、どんな大人になるのか、兄として僕は楽しみだな。僕は時々、君の将来が花に囲まれて見えるくらいさ」
「わたし、いつかお花の学者になりたいって思っているの」
 何故だか、素直に勇気が出た。いつか、お父様とお母様とお兄様達に、わたしの研究を披露したい。そう努力しよう。メイは今、はっきりと思った。

 二人はそれから小半時も、山王丘の散策を楽しんだ。ようやく陽は落ち、あたりは闇に包まれた。散歩の終に前原から本丸奥の八幡神社に登り、手水脇の玄武岩の古いベンチに並んで腰掛けて、二人を育てた町を眺めた。
 点々と家々の灯りが見える。この頃、めっきり町は暗くなったとメイは感じる。防空のために、どの家も黒い暗幕を窓に垂らしているのだ、それでも何時かの明るさの無い町は寂しい。遠く漁り火が、僅かに見えた。二人の座った石のベンチが、ひんやりとして心地好い。境内の一角に、もう三百年はここに生きているという、大楠がある。樹高二十一米、幹回りは十三米に及ぶ。維新の戦でも、戦禍を免れて生き抜いてきたのだという。メイたち兄妹は、幼い頃この楠の下でよく遊んだものだ。随分と老いた大樹は、それでも美しく姿佳く、毎年のように蒼々と葉を繁らせ、この時期は可憐な淡緑の花を付けアオスジアゲハや鵯や子どもたちを集めて、この山王丘の主であるのだ。この地の人々は、この楠の大樹の前に立つとき、かならず畏敬の念を持つのだ。中天の薄明かりを背に、大楠は暗く美しい緑の影絵を見せて、二人を抱擁している。
「ああ、もうすっかり暗くなったね」


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